2006-05-25美術品蒐集の達人に聞く!
山下裕二氏 | 一対一の関係を切り結ぶ

今回お話を伺うのは山下裕二さん。
室町時代の水墨画のご研究を専門としていらっしゃいますが、赤瀬川原平さんとの共著「日本美術応援団」シリーズ(滅茶苦茶面白いデスヨ)で、日本美術の世界を新しい切り口で紹介される一方で、いわゆる現代アートと呼ばれる世界などにも造詣が深く、ありとあらゆる画廊・展覧会に顔を出されて、作品も購入されています。

山下裕二氏にお話を伺いました

室町時代の水墨画のご研究を専門としていらっしゃいますが、赤瀬川原平さんとの共著「日本美術応援団」シリーズ(滅茶苦茶面白いデスヨ)で、日本美術の世界を新しい切り口で紹介される一方で、いわゆる現代アートと呼ばれる世界などにも造詣が深く、ありとあらゆる画廊・展覧会に顔を出されて、作品も購入されています。

――山下さんは、ご専門の古美術の研究、ということ以外に、数年前から現代アートを中心に画廊を見て回られているとうかがっています。その中で、美術品をしばしば購入されていらっしゃいます。研究者としては「見るだけ」、と言うことでも良いわけですが、何故、美術品を「買う」というところまで、踏み込まれたのでしょう。その理由を聞かせて下さい。

「ぼくが買っているのは大半は、まだ若い、世間では殆ど認知されていない作家が多いんですけど、そういう人、その才能に対するリスペクト(敬意)の表現として買ってますね。それとエンカレッジ(励まし)。
ぼくの仕事である、文章を書くことでもリスペクトとエンカレッジの表現ができるんだけど、買う、ということはそれ以上の表現になりますね。美術に関する文章を書く人間には、買う人と、買わない人がいますが、ぼくはこの6,7年は、積極的に買うようにしています。
専門の古美術も勿論できれば買いたいんだけど、それこそ僕の研究対象のものなんか、買うとしたら、数千万、億の世界ですからね。とても買えませんね。
できれば、自分でも江戸期のものを、2,3点買いたいですけど、その為には、もっと何十万部も売れる本を書かなきゃね(笑)。だけど、若い人の作品だったら、それこそ5万、10万で買えますし、それは本当に楽しいですよ。僕の場合は、半ば義務感もあるけれども。」

―― 買う、ということが一番強いコミュニケーションになりますよね。

「そうですね。そして、本当に、喜んでくれるんですよね。誰も知らない作家の作品を買うのが、一番、いいでしょうね。そのために、一生懸命歩いてみて廻っている。」

―― そういう視線で、古いものもご覧になってるんでしょうね。

「そうですよ。だから、過去の作品でも、誰も認めてない価値を見つけて、それを紹介する、というのが僕たち美術史家(最近はそういう名乗り方もしないようになりましたが)の役割だと思ってます。」

―― 実際、「買う」以前と、「買う」事を始めてから、気持ちの変化など、ありますか。

「以前から、もちろん真剣に見てなかったわけではないですけど、絵を見る真剣度はより増しますよね。若い頃は全然お金なんか無かったから、絵を買うなんて考えもしませんでしたけど、まあ多少の余裕が出来てきて、『買えるかもしれない』と、いう思いでみると真剣度は増しますよね。
ただ、ヘンな話ですけど、僕の場合は、買ってしまったらどうでもいいんです。ギャラリーに置きっぱなしということが多いです。あるいは作家さんの所に預けっぱなしとか。で、美術館から出品依頼の書類が来て、ハンコだけ押して返送すると、ある日美術館に並んでたりしますね。もう、何を買ったのか忘れてたりするんですよね。リストでも作らないとまずいかなと思ってるんですけど(笑)」

―― だけど、本当に真剣に美術館から画廊から、ありとあらゆる所を歩いておられると、(才能に)ぶつかるんですねえ。

「ありますよ。そうです、いつの時代にも必ず才能のある人はいますね。」

―― では、今まで購入された作品についてうかがいます。月刊『美術の窓(生活の友社)』で連載していらっしゃる『今月の隠し球』で、若い作家の方を紹介されていますが、彼らは、本当に知られていない人ばかりなんですか。

「そうですよ、ほとんど世間で誰も知られていない人ばっかりです。」

―― だけど、あの中で紹介している、石鹸とお風呂のタイルなんかの題材で、ものすごくリアリティのある緻密な木彫りを作る前原冬樹さん(※1962年生。)なんか、こんな凄い作品を作る人だから、もっと知られている人かと勝手に思ってしまいました。
「いえ、誰も知らない人でしたよ。だけど、本当に凄い人です。この5,6年に出会った作家の中で、一番すごいかもしれない。掲載が切っ掛けで、AERAなどでも紹介されましたが。」

―― これまで紹介されている人、深津真也さん(1957年生)赤塚美知智子さん(1973年生)にしても、本当にヤマっ気のないというか、真面目な人が多いですね。

「結果的にそうなってますね。本当にいい人、好青年が多いですねえ(感嘆)。そしてそれはね、作品を見たら、分かるんです。
それでね、僕がやりたいのは、<保証された価値>しか眼を向けない、という傾向が美術の世界であまりに多いので、その真逆をやってやろう、と思ってるんです。号幾らの世界じゃなくて。」

―― さて、ちょっと話は変わりますが、私どものカタログで、面白いと思ったモノはありましたか。

「南画は僕は苦手なんだけど、この杏雨(本カタログ所収 No.1帆足杏雨「道士洞居図」)はいいですね。これは欲しいと思いますよ。
ただ、南画の世界がイヤなのは、自分たちでルールを決めて、そのなかでだけやっているように思えるんですね。行ったこともない癖に中国かぶれで。現代アートの世界も似たようなモノですけどね。今NYではどうこう、と言ってるような連中は。」

――南画が駄目、というと、富岡鉄斎なんかも。

「いや、鉄斎は違いますね。どうして違うかというと、彼はすごくお茶目なんですよ。あれだけの教養があって先人のものを咀嚼しているんだけど、どっかずれてるんですね。そこがお茶目。
この人のモノを集めていた布施巻太郎さん(※医師。鉄斎のコレクションで知られる布施美術館創始者。)は、やはりリスペクトで買っていらっしゃったじゃないですか。ところがそれと別のところで、ブランドとしてのマーケットが出来ちゃって、贋物なんかが出回ってしまいましたね。」

―― ところで、明治に入ってからの人で、もっと光を当てた方がいい人はいますか。

「うん、いろいろいますよ。明治の工芸なんかこれから評価されるものがあるでしょうね。絵の世界でも、これから光が当たる人はたくさんいると思いますよ。自分の買った例でいうと、渡辺省亭(※日本画家。図案家。明治、大正に活躍。)を買いましたね、ひとつ。」

―― もう死んじゃった人のモノだと、リスペクトを表明する、という意味では、本人がいないのだからお金の出し甲斐がないということはありませんか。

「そんなことはないですよ。やっぱりリスペクトを表明する事では変わりありません。」

―― ところで、また話が変わりますが、一般の方にとって、画廊の思い扉を開けて入るのは勇気がいると思うのですが、何かコツのようなものを教えて頂けるでしょうか。

「だからもう、買い物感覚ですよ。それにつきます。・・・ただ、まあ、買い物感覚、ということでいえば一般の方は敷居が高い、と思っちゃうわれてしまうでしょうね。だから、美術商の方に提案したいのは、もう少しディスプレイを考えられたらいいのじゃないか、というふうには思いますね。」

―― そこで、美術商の業界に対する希望とか、不満とかの話を聞きたいのですが。

「それをいえば、さっきから言っているように、みんな保証された価値だけを尺度にモノを見ているということですよね。それが号幾ら、という量り売りみたいな流通の仕方になっているということですよね。日本画家のリトグラフなんかでもべらぼうな値段で流通しているワケじゃないですか。それはちょっとオカシイことですよね。」

―― 最初にリトグラフっていうものが市場に登場したときは、これは恐ろしい事になると思いましたね、「美術商」の幅も数も増えて、すごい量のお金が流れ込んでくる。「そういう根拠のない市場ができちゃったんですよね。・・・ただ、美術っていうのはどうしたって詐欺的要素はありますけどね。千利休(※茶道三千家の粗。豊臣秀吉に仕えるが、最期は切腹を命じられる。「利休好み」の道具類は現在に至るまで極めて高価に取引されている。)なんか最大の詐欺師かもしれません。」

―― 井戸茶碗とか、何でもない日常雑器にものすごい価値のお墨付きをあたえちゃうんですものね。その価値付けが現代まで続いているというのが凄いですよね。

「まあ、形だけ残ってますね。ただ、茶道の家元の人たちなんかともつきあいがありますけど、その辺りの事が自分でわかってやっている人は信頼できますね。・・お茶の世界だけじゃなくって、絵だって、物理的に見れば、絹や紙に絵の具や墨を塗っただけのモノで、だから何なんだ、といわれれば、詐欺といえば詐欺ですよね。」

―― はい。

「だけど、ちゃんッと腹をくくった詐欺であって欲しい。姑息な詐欺じゃなくて。いわゆる現代美術には確信犯的な詐欺が横行しているんですよね。アメリカの現代美術なんて大半が100年たったらゴミになってますよ。」

―― 現代は、何か説明能力のある人の絵ばかりが高くなって、絵そのものの力と関係ないところでモノが動いているように思います。

「それと自己演出ですね。アンディ・ウォーホル(二十世紀アメリカのポップアートの旗手。)なんて、億単位の価格がついてるけど、彼は確信犯的なパフォーマンスとして、あの下らない絵をメディアなんかも活用して売ってるわけです。ただ彼はそのことに戦略としての自覚がありますよね。だけど今は呑気な権威の人が多すぎます。それをディーリング(売買)している人もそうだけど。」

―― 自分がパフォーマンスをしている、という緊張感がないということですね。

「そうですね。そういう覚悟が欲しい。
ところで、呑気な権威といえば、かつての狩野派(※桃山時代から江戸幕府の終焉まで続いた御用絵師の流派)もそうですね。狩野探幽(江戸狩野派の始祖。)以来の狩野派は。大名に給料もらって。そういう狩野派の作品は、だから今は大半は二束三文になってしまってます。
だけども、その狩野派の中でもごく少数の人は、ものすごい緊張感もって描いている人もいるんです。」

―― 例えば河鍋暁斎(※狩野派のラストランナー。幕末から明治にかけて活躍)なんかそうですね。

「そうです。彼は狩野派としてのプライドも持っているんです。ただ一方で国芳に弟子入りしていたり。そして作品は凄いですよ。非常に面白い人です。
狩野派だからというだけで、詰まらない絵と決めつけたらいけない。
・・・だから、ジャンルは関係ないんです。過去のものであれ、現代のモノであれ。一対一の関係を如何に切り結ぶか、ということなんです。だから、号幾ら、なんていうことに縛られている人は、一対一の関係を切り結んでないんですよ。本当は、世間の評価なんて関係ないんです。もちろん、先人の中には、すごい見方をした人も沢山います、そういう見方から学ぶことはたくさんありますよ、だけど、その後は、自分の眼で、そのモノと一対一で切り結ばないといけない。そうしないと、全くモノと接したということにならないわけです。」

―― そういう意味では、やはり美術商は号幾らということに毒されきっていますかね。
「申し訳ないけど、そう言わざるを得ませんね。ただ、もちろん、いますよ、表面的には世間的な価値に合わせながらも、メラ、メラと一対一の関係を切り結んでいる人はいますよ。そういう人とはいいつきあいができますよね。
コレクターでもそうですね。福富太郎さん(※キャバレー経営者。美人画・戦争画のコレクターとして著名。)なんかは凄いと思いますよ。コレクションとして筋が通ってると思う。さまざまな対象と一対一の関係を切り結んでおられる。」

――・・・ところで、美人画といえば、中村大三郎は興味有りますか。
「中村大三郎は興味ないけど…。(Vol.3掲載の『舞妓』実物をお見せする)これはいいですね。僕、欲しい絵ですよ。持ち合わせがあれば買いたい絵です。」

―― これは、僕が買ったんです。少しキズがあるけど、そんなことよりも、いい絵だと思ったので。

「だから、これは貴方がこの絵と一対一の関係を切り結んだということじゃないですか。一対一の関係、これが今日のキーワードですね(笑)。」