竹久夢二といえば、“明治・大正ロマン”を象徴する代表的な画家であり、詩人。
美人画を得意とする弊社でも夢二の作品は大変人気があります。
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明治17年に岡山県に生まれ、もともと絵の上手い少年でしたが、家の貧窮などもあり、17歳の時に家出し、詩人を志して上京します。
藤島武二に私淑し、雑誌や新聞に投稿した絵がきっかけとなり、数々の挿絵で活躍し、その後彼の美人画は絶大な人気を誇り、瞬く間に流行作家となります。
とろりと黒目がちに潤む瞳、物憂げな、どこか淋しげな表情。
「夢二式美人」といわれる叙情的な女性像は、世の男性、女性、そして多感な乙女たちの心を今も虜にし続けています。
ところで、49歳でこの世を去った夢二の戒名をご存知でしょうか。
東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬された夢二の墓には、深く親交のあった有島生馬の揮毫により「竹久夢二を埋む」と彫られていますが、岡山県瀬戸内市の「夢二郷土美術館分館(夢二生家)」近くにある竹久家先祖代々之墓には、戒名が『竹久亭夢生楽園居士』と刻まれています。
『竹久亭夢生楽園居士』 「夢生」「楽園」…。
彼の詩情あふれる絵と、数々の女性との出会い、愛に生きた人生を髣髴とさせる、なんともロマンチックな戒名です。
生前から戒名を決めておく方もいらっしゃるようですから、夢二も、自ら晩年の名を入れた戒名を用意していたのかもしれませんね。
夢二の死後も彼を慕い続けた最初の妻・たまき。
若くしてこの世を去り、夢二が最も愛したといわれる、彦乃。
彦乃亡き後の傷心の夢二の拠り所となった、お葉…。
創作の原動力ともなったミューズ達との出会いと別れを繰り返し、育んだ濃密な愛の人生は、楽園のごときものであったのでしょうか。
…しかし、
「夢生」と名乗った晩年頃に、夢二はこんな言葉を残しています。
「近代の女の眼にはヒステリックな愛の強要はあるが、静かな故知らぬ約束もなしに頬をつたう涙はない。
あの理智の影のささない訴えるような、憬れるような、久遠の純真を持った夢二式の眼はもはや再び見るよしもない。」
近代の女性への失望。
病を得て、死が身近となった夢二には、
新しい時代を謳歌する現代的な女性のパワフルさ、生命力の輝きといった部分は受け入れ難くなっていたのかもしれません。
夢二が愛し、焦がれたナイーブな女性像は、すでに過去の夢、幻、
そして夢二の絵と詩歌の中に生きるのみ。
「夢生」の名には過去の日々を夢見るように懐かしむ、哀愁の情が込められているように思えます。
その思いは戒名となり、今生では失ってしまった理想郷をこの世ならぬ世界に求める、永遠の夢追い人の姿を連想させます。
さて、夢二はまだ理想の女性像を探しているのでしょうか。
私には、今は夢なかで、美しいミューズ達との逢瀬を楽しんでいるように思えます。